暮らしのなかの健康法万般。赤ちゃんからお年寄りまでの病気の解説・予防・治療法。食生活、食品、サプリメント情報…など、面白くてタメになる実用エッセイ。

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雑感コラム

「ふぐは食いたし命は惜しし」の来歴

◎フグ毒の本体はテトロドトキシン


あら何ともなや 昨日は過ぎて 河豚汁(ふくとじる)       松尾芭蕉


河豚汁(ふぐじる)の われ生きている 寝覚(ねざめ)かな   与謝蕪村


河豚汁は、ふぐの肉を実に入れたみそ汁。

江戸時代のふぐ料理はほとんどこれだったという。芭蕉も蕪村も、ふぐ刺し(テッサ)やふぐちり(テッチリ)、ふぐの空揚げの味は知らなかったわけだ。

調理法も限られ、調理の管理もきわめて不十分。

当たると命にかかわるから「鉄砲」と恐れられたご禁制の魚だったが、その美味はよく知られ、広くひそかに食されていた。


「五十にて鰒(ふぐ)の味知る一夜かな」の作者、小林一茶は、50歳になるまではおっかながって口にしなかったようだが、いったんその味を知るや、

「鰒(ふぐ)食はぬ奴には見せな不二の山」と豹変している。


明治の世になっても、命がけの一面は変わらなかったので、

夏目漱石は、「嘘(うそ)」を河豚汁にたとえて、

「その場限りで祟(たた)りがなければこれほど旨(うま)いものはない。しかし、中毒(あたっ)たが最後苦しい血も吐かねばならぬ」といっている。(小説『虞美人草』)


フグの毒は、肝臓と皮の裏の粘膜、そして、卵巣に最も多い。フグでさえやはりメスのほうが毒を余分にもってるわけだ(へへへ...)。


フグ毒の本体は、明治42(1909)年、東京衛生試験所の田原良純博士によって明らかにされた。

フグの学名テトロドンと毒のトキシンをくっつけて、その毒素を「テトロドトキシン」と名づけたのも同博士である。


テトロドトキシンは、無色・無味・無臭、その毒性は青酸カリの200倍とも500倍とも、あるいは850倍ともいわれる、すさまじい猛毒だ。

一種の神経毒で、もし当たると、早くて30分、遅くても5時間で手足がしびれ、口がきけなくなり、最後は息ができなくなって、死ぬ。


「ふぐ(河豚・鰒)は食いたし命は惜しし」

このことわざの意味を、『広辞苑』は、

「おいしい河豚料理は食いたいが、中毒の危険があるので食うことをためらう。転じて、やりたいことがあるのに、危険が伴うので決行をためらう。」と注釈している。


前記のように、別名の「テッポウ(鉄砲)」や「テッサ(鉄砲刺し」「テッチリ(鉄砲ちり鍋)は、当たると命がないという洒落である。

「うまいけどこわい!」、「こわいけど、うまい! 食いたい!」。

この切実なダブルバイント(二重規範)ゆえに、「河豚食う無分別、河豚食わぬ無分別」といわれる。


「あら何ともなや─」の芭蕉の句や、「われ生きている─」の蕪村の句には、

理性は「食うな!」と命じ、心情は「食いてぇよ!」と訴える、アンビヴァレンス(反対感情両立)的苦悩に折り合いをつけて舌つづみを打った一夜が明けて、

「ああ、よかった!」と喜ぶ心があふれているようだ。


「鰒汁(ふぐじる)に又(また)本草(ほんぞう)のはなしかな」という宝井其角の句は、その美味を賞味しながらも、つい解毒法の話になってしまう情景を詠んだものだろう。

「本草」とはいうまでもなく薬物学のこと。


残念ながらテトロドトキシンの解毒剤はいまだにできてない。

だいぶ以前に東大農学部のグループが、テトロドトキシンの抗体を開発したと聞いたことがあるが、あれはどうなったのだろう。

いま、ネットで検索してみたが、まだ実用化はされてないようだ。


いまも年間20~30件のフグ中毒が発生し、死者も出ている。

もっとも、そのほとんどは素人料理か無免許の料理人の手によるもので、プロ(ふぐ調理師)が調理したものなら心配無用。

なお、フグの皮に多いコラーゲンには、血中コレステロールを下げる作用があるというが、フグ料理屋の勘定書はしばしば血圧を上昇させる。


「ふぐは食いたし、財布は軽し」「カネもないのにふぐ食う無分別」である。


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「一笑一若・一怒一老」の生理的真実


「一笑一若・一怒一老」という成句がある。

中国のことわざで、原音だと、一笑(イシャオ)一若(イルオ)、一怒(イヌ)一老(イラオ)となるらしい。

「一笑」と「一怒」の「一」はわかる。

「一若」と「一老」の「一」がよくわからない。

1日か? 1月か? 1年か? 

いや、そんな決まった時間のことではなく、この「一」は、比喩のようなもので、1回笑えばそのぶんだけ若返り、1回怒ればそのぶんだけ老けこんでしまう―というのだろう。

そう。怒れば年をとり、笑えば若くなる。

つまり怒りは体に悪い、笑いは健康によい。

大脳生理学者も「不快感、怒り、恐れはいわば戦時体制の心構え」と説いている。(時実利彦『人間であること』=岩波新書)。

怒ると、自律神経の一つの「戦時用」の交感神経系が緊張し、心臓の拍動が激しくなり、血管が収縮し、血圧が上がり、気管支が拡張し、瞳孔が開き、消化液の分泌が減少し、肝臓から糖分が血中に流れ出て燃やされる...というように体内で「さまざまな戦闘状況」が展開される。

結果、体力を消耗し、胃が痛くなったりもする。

もともと血圧が高かったり、心臓に病気をもっていたりすると、激しく怒ったとたん、重大な変調を招くことさえある。

東洋医学の古典『素問霊枢』にも、

「怒れば肝を害し、おびゆれば心を害し、憂うれば肺を害し、考えれば胃を害す」とあるそうだ。

心身症やストレス性の病気の原理を言い当てた至言だろう。

しかし、怒りを無理やり抑え込んでばかりいると、これも心と体によくない。

神経症、高血圧、糖尿病、胃潰瘍、狭心症、腎硬化症などの誘因になるという。

たまには焼酎でも飲んで、酔っぱらって、夜更けのガード下あたりで、

「部長のバッキャロー!」なんて適当に発散したほうがよさそうだ。

一方、笑えば、血管が開き血圧が下がり、心臓、肺、胃腸など内臓器官がスムーズにはたらき、ホルモンの分泌が盛んになる。

よく知られている研究だが、漫才などで大笑いしたあとは、がん患者のNK(ナチュラルキラー)細胞の活性度が上昇した。

NK細胞は、免疫を担うリンパ球の一つ。感染症のウイルスやがん細胞をやっつける力をもっている。

リウマチの女性患者に落語を1時間聞いてもらったら、症状を増悪させる物質(インターロイキン6)が減少し、痛みが楽になったという研究報告もある。

「笑おう会」という会の「効能書」にはこうある。

「ときに呵々大笑すれば、横隔膜の上下運動を促し、腹中のコリをとき、消化・吸収・排泄をよくする。胸中のうっぷんを去り、胸筋をやわらげ、心筋梗塞の予防となる」

一つ、つけ加えると、横隔膜の上下運動は、呼吸と血行も促進する。

だからよく笑う人は血色がいい。

笑声は痙攣(けいれん)の一種だからそのあとに弛緩(しかん)がきて、緊張が緩和する。

大声で笑えば筋肉の緊張がゆるみ、人間関係の緊張も緩和される。

こんなにいろいろとよく効いて、副作用がまったくなくて、いくら使っても減らない薬なんてあるものじゃない。

しかも、それでタダなのである。

「笑」という字は「咲」と同じで、花が開くのを「花笑」ともいう、と漢和辞典にある。

新しい年、大いに笑って、花を咲かせようではありませんか。


「年寄りの冷や水」は是か非か?


いろはカルタ。

昔はどこの家にもあり、正月遊びの定番だった。

「犬も歩けば棒に当たる」ではじまる「江戸いろは(犬棒カルタ)」の「と」は、「年寄りの冷や水」である。

意味は説明するまでもないだろうが、念のため字引きをめくってみた。

「年寄の冷水(体の衰えた老人が生水を飲むことから)老人に不似合いな危ういことをするたとえ。また、老人が差し出たふるまいをすることをいう。」=『広辞苑』第六版。

衛生環境のわるいところの「生水」に気をつけなければならないのは、老人だけではない。

また、「冷え万病説」を説く医師にいわせると、「冷や水」がよくないのはわかりきったことだろう。老若男女を問わず。

だが、水を飲むことの大切さは、それとは別だ。

年寄りだろうが、赤ん坊だろうが、水は「いのちの素」である。

なにも食べなくても、水だけ飲んでいれば3~4週間は生きていられるが、水を1滴も飲まなかったら4日で死んでしまう。

体の中の水分すなわち体液の量は、新生児は体重の約80%、成人男性は約60%、女性は約55%だ。

女性は男性よりも体に脂肪が多いので、そのぶん水分の割合が少なくなる。

そして年をとるにつれてしだいにへって、老人では体重の50%かそれ以下になる。

つまり人の一生を体液量の推移でみると、80%-50%=30%ということになる。

で、「老化とは乾燥の過程である」といわれる。

体の中の水分は、体温の調節、全身の組織への栄養と酸素の供給、組織からの老廃物の排出などの役目を果たしている。

体重の2~3%に相当する水分が失われると、体温上昇が目立ちはじめ、循環機能に影響が出る。

汗をかいたとき、それと同量の水を飲まないと、脱水状態を招き、体温が上がり、体力を消耗する。

ひどい場合は熱中症になり命にかかわる。

そこまでいかなくても、汗をかき、尿が濃くなると、尿路結石(腎臓結石、尿管結石、膀胱結石)ができやすい。

尿酸の体外への排出が悪くなるから痛風発作も起こりやすい。

どちらも中高年の男性に特に多い病気である。ゴルフのとき、コースへ出る前などは忘れずに水を飲んでおくべきだ。

炎天下、のどをカラカラにしながら(そのほうがあとのビールがうまい、などといって)、プレイに励むなど生命知らずの蛮勇といわねばならない。

水分の不足で意外と気がつかないのが、便秘、食欲不振、乳幼児の夏季熱。

水をたっぷり飲むようにしたら便秘が治ったとか、夜泣きする赤ちゃんに水を飲ませたら泣きやんだなど、よく聞くはなしである。

心筋梗塞や脳梗塞のような血管の詰まる病気が朝方起こりやすいのも、体内の水分不足が大きな一因といわれる。

寝ている間の発汗や不感蒸泄で体内の水分がへり、血液が濃縮し、血栓ができ、血管が詰まりやすくなるというわけ。

これを防ぐため夜寝る前と、朝起きがけに水を飲むように勧められる。

水分の摂取がきびしく制限される、ある種の腎臓病や心臓病の人を除いて、だれでも1日約2.5㍑の水分の補給が必要だ。

「年寄りの冷や水」の原句は、「年寄りの礼水(れいすい)」であり、後世の人が「礼水」を「冷水」と書き違えたか、「礼水(あやみず)」を「冷水(ひやみず)」と聞き違えたのだろうという説もある。

水のおかげで長生きできたのだから、水に礼をいわねばならぬという意味だそうだ。

国語学的にはどうか知らないが、生理学的には一理ある説だ。

水をきちんと飲めば、皮膚の老化も防ぐ。

これがホントの水もしたたるよい男、だ。


柿が赤くなると医者は青くなる

柿が赤くなると医者は青くなる

このことわざの意味を、鈴木・広田編『故事ことわざ辞典』は、「晩秋は健康な季節で病人が少ないこと」としているが、それだけでは説明不足だと思う。

秋の収穫期の最中には、多少、体のぐあいがわるくても医者に行くどころではないという生活背景とか、カキの栄養価への称揚も含まれているのではないか。

同類のことわざに、「柚(ゆ)が色付くと医者が青くなる」「蜜柑(みかん)が赤くなれば医者は青くなる」「秋刀魚(さんま)が出ると按摩(あんま)が引っ込む」などがある。

カキもユズもミカンも栄養面の特徴はよく似ていて、ビタミンAとC、そしてカリウムが多い。

ビタミンAは、眼、呼吸器、皮膚、髪などの健康を保つうえで欠かせない。

ビタミンCは、皮膚や歯ぐきの出血を治し、風邪などの感染症を防ぎ、きれいな肌をつくる。発がん物質ニトロソアミンの生成を抑える。

カリウムは、血圧を下げる。体の老廃物を排出する。

サンマで特記しなければならないのは、多価不飽和脂肪酸のEPA(エイコサペンタエン酸)とDHA(ドコサヘキサエン酸)の含有量が豊富なことだ。

EPAは、血管の中で血液が固まる血栓症を防ぎ、心血管系疾患(心筋梗塞、脳梗塞)のリスクをへらす。

DHAは、脳の記憶学習中枢の構成物質で、知能向上、精神障害の緩和などのメリットが確かめられている。

DHAを与えたネズミの学習能力が向上した実験などにもとづき、「魚を食べると頭がよくなる」といわれる。

ま、医者やマッサージ師の出番がなくなるかどうかはともかく、カキ、ミカン、ユズ、サンマ、それぞれいずれもスグレモノ食品であることは間違いない。

ところで、江戸中期の俳人、横井也有が「健康十訓」と称してこんなことをいっている。

①少肉多菜。②少塩多酢。③少糖多果。④少食多齟(そ=噛む)。⑤少衣多浴。⑥少車多歩。⑦少煩多眠。⑧少忿(ふん=怒る)多笑。⑨少言多行。⑩少欲多施。

いちいち、ごもっとも。ビタミンやミネラル、EPAだのDHAだのは知らなくても、現代栄養学、生理学、精神医学その他にちゃんと通じている。見事というほかない。

ただ一つ、注文をつけておくと、多果(果物を多く食べる)が過ぎると、果糖の過剰摂取になる。

果物の過食が原因のNASH(非アルコール性脂肪肝)が少なくないと、専門医が注意している。

実りの秋。食卓が豊かになる。

柿ばかりか、牡蠣(かき)も一段とうまさを増す。

食欲の秋にうかれていると、糖尿病やメタボ傾向の人は、検査データに青くなる。

現代人のことわざとしては、

「柿が赤くなると患者が青くなる」としたほうがよいようだ。


「酒は百薬の長」の虚実

酒の十徳


酒に関する名言、格言の類を集めたものを走り読みして気になったことがある。

それは日本人にはどうも否定的な酒観?の持ち主が多いようだということだ。

なにかよほど酒にひどい目に合わされたのか、恨みつらみが言外ににじみ出ている感じなのだ。

例を挙げるとこんなふうである。

「一杯は人、酒を飲み、二杯は酒、酒を飲み、三杯は酒、人を飲む」(千利休)

「好んで酒を飲むべからず。固辞しがたくとも微醺(びくん)にして止むべし」(松尾芭蕉)

「酒を多く飲んで飯を少なく食う人は命短し」(貝原益軒)

「百薬の長とはいえど、万の病は酒よりこそ起これ」(吉田兼好)

ただ、一方にはこんな人もいる。

将棋の升田幸三さんの生前、面接取材した際、医者にかかっても薬はめったに飲んだことがないとおっしゃる。

「どうしてですか?」

「医者がくれるのは一薬だが、わしは毎日、百薬の長を飲んどる」

大いに笑わせてもらったが、適量の酒はまさにしかり、である。

「酒の十徳」を挙げてみよう。

①気持ちのイライラを鎮め、心を安らかにする精神安定剤。

②憂うつな気分を浮き立たせ、心を陽気にする抗うつ剤。

③胃液の分泌を促す食欲亢進剤。

④眠りを誘う催眠剤。

⑤善玉コレステロールのHDLを増やし動脈硬化を防ぐ心臓病の予防薬。

⑥血圧を下げる降圧剤。

⑦尿の出をよくし、尿路結石を防ぐ利尿剤。⑧発汗を促し風邪を治す解熱剤(例=たまご酒)。

⑨脳を刺激し意識を回復させる気付け薬。

⑩セックスをつよくする催淫剤。

まさに百薬の長、これほど多彩な薬理作用をもつ薬はほかにはないだろう。

急いでヤボなつけたしをするが、こうした酒の薬効は、適量を守ったときにのみ得られる。

飲み過ぎると逆効果、命取りになりかねない。

適量とはどれくらいか?

「1日1単位」、多くても「2単位」が限度と、心臓病や肝臓病の専門医は異口同音に注意している。

1単位(純アルコール換算20g)は、ビール=中びん1本、日本酒=1合、ウイスキー=ダブル1杯、焼酎=0.6合、ワイン=1/4本、缶チューハイ=1.5缶といったところ。

適量の酒が、心臓病、脳梗塞のリスクを有意に下げることは、世界各地で行われたさまざまな疫学調査によって実証されている。

だが、だからといって、もともと酒に弱い人が無理して飲むのはNG、バカげている。

酒(アルコール)は、体に入ると肝臓で分解処理される。

そのさい必要な酵素が3種類あるのだが、日本人などモンゴロイト(黄色人種)の約40%は、そのなかの1種類ALDH2の活性が弱いか、欠けている。

そのため少量のアルコールでも悪酔いしやすい。酒に強いか、弱いかは、これで決まる。

酒をすこし飲んだだけで、たちまち顔が赤くなり、胸がドキドキする人は、ALDH2が欠損していると考えてマチガイない。

そういう人は、たとえ社長命令でも一気飲みなんて絶対やってはいけない。

「酔いに十の損あり」と古人も教えている。

─てな、わけで、「酒は百薬の長」は、ホントであり、ウソでもある。

このようにまったく一筋縄ではいかないのが、酒の酒たるところだろう。


耳が遠くなると長生きする?

耳と寿命は無関係

私事だが、私は10年前にほとんど全聾同然の重度難聴になった。

「ミンツン(聾を意味する屋久島方言。ミン=耳)になったよ」といったら、「目でなくてよかったな」といわれたり、「耳が遠くなると長生きするそうだよ」と慰められたりした。

目と耳とどちらがより重要か。これは一概にはいえない。

視力には、感覚・知覚・認知のすべてが反映され、人間は外部情報のほとんどを目から収集しており、その割合は約80%にもなるといわれる。

一方、聴力の欠如は人間関係をいちじるしく希薄にする。

人の肉声(話)を聞くことができないことが、どれほど寂しいものか、なった者でなければわからないだろう。

「目が見えないことは、人と物を切り離す。耳が聴こえないことは、人と人を切り離す」と、カントがいっているそうだ。

なるほど、目、耳、どちらを選ぶ? という問いを突き詰めると、物か? 人か? の二者択一、人それぞれの価値観を問うことに通じることになるようだ。

つまり一概にはいえないってわけ。

─と、書いて、いま、目を閉じて全盲の状態をつくってみて、これが死ぬまでつづくのかと想像したら、怖くなった。

ミンツンのほうがまだしも救いがあるなと思い、わが精神性の低さを自覚したしだい。


    *

さて、本題の「耳が遠くなると長生き」だが、これ、ホントか? ウソか?

まるっきりウソ、ナンセンスな俗説である。

難聴は伝音難聴と感音難聴に大別される。

前者は、外耳から中耳までの音を伝える働きが障害された場合に起こる。

後者は、内耳から大脳までの音を感じる神経系が壊れる。

内耳は、耳の奥にある体の中で最も硬い骨に囲まれている。

そこの蝸牛(かぎゅう)と呼ばれるカタツムリのような形の器官に、有毛細胞という毛の生えた細胞がびっしり並んでいる。

この細胞の壁に収縮たんぱく(プレスチン)という物質があり、音の振動が伝わると、伸び縮みしてその刺激を脳へ伝える。

蝸牛の中にひしめき合うように生えている有毛細胞は、生まれたときから減り始めて、けっして再生しない。

だから年をとるにつれてだんだん耳が遠くなるのは(個人差はあるが)、だれも避けられない。いわゆる老人性難聴である。

昔、「人生50年」といわれた短命時代には、老人性難聴が起こるまで長生きする人はごく少なかった。

結果、長生きした人はみんな耳が遠かった。

その原因と結果が逆立ちして、「耳が遠くなると長生きする」という俗説が生まれ、信じられるようになったわけだ。

いまや「人生80年」どころか「90年」の時代になりかけている。

だれもが避けられぬ加齢性難聴の進行を抑えるにはどうしたらよいか。

小川郁・慶応大教授(耳鼻咽喉科)らは、10年以上前から「イヤー・フード」の実験的研究を続けていて、抗酸化物質が難聴の進行を抑えることを実証した。

抗酸化物質を多く含む食品といえば、バナナ、アボカド、プルーン、アーモンド、キウイフルーツ、リンゴ、ミカン、キャベツ、タマネギ、カボチャ、ニンジン、トマト、ブロッコリー、ニンニク、納豆、豆腐、豆乳、そば、卵の黄身、ワカメ、ココナッツオイル、赤ワイン...きりがない。

 小川先生は、プレスセミナーでこう話していられる。

「治せない難聴は、いかに予防するかが大切で、いま注目の抗加齢医学では、例えば脳を守るための「ブレイン(脳)フード」として、ビタミンEとかウコン、カテキン、青い魚に含まれるDHAなどの効果がわかっています。

耳についてはどうか。我々も10年以上前から「イヤー(耳)フード」の実験的研究を続けていますが、一つはカロリー制限と、もう一つは抗酸化物質が、難聴の進行を抑えることがわかっています。

例えば、Sir2という長寿遺伝子はカロリーを抑えるとスイッチがオンになります。

抗酸化物質では赤ワインのポリフェノールがSir2遺伝子を活性化するという論文が二〇〇三年に発表されて、赤ワインブームが起こりました。

が、赤ワインをどれくらい飲めばSir2遺伝子をオンできるかといえば、1日5本ということで、それじゃ寿命が伸びる前に肝硬変で死んでしまう(笑)。

そこで赤ワインの、そのレスベラトロールという物質をサプリメントにすればいいだろうと、いまそれの開発が進んでいるようです」。

レスベラトロールとそのサプリメントについては、このブログの「長寿サプリ」にすこし詳しく記した。ご参照ください。


火事場の馬鹿力の生理学

◎気力が体力を引き出す 

夏休み中の高校の講堂からボヤが出た。

駆けつけた生徒3人でピアノを運び出した。

鎮火後、元に戻す段になったら、同じ3人の力ではもうピアノはびくともしなかった。

──という話を、むかし聞いたことがある。当方も当時、その高校の生徒の1人だった。

筋肉は、無数の筋線維(収縮能をもつ細胞)でできていて、たんぱく質の一種のアクチンとミオシンの相互作用によって収縮し、力を出す。

通常、筋線維は20~30%しか収縮せず、ほかの部分は交替で休息するしくみになっていて、健康な人間なら自分の体重と同じ重さくらいまでの物は持ち上げられる。

ところが、なにか極限に近い状況に追い込まれると、60%以上の筋線維がいちどきに収縮して意外な力を発揮する。

それが「火事場の馬鹿力」だ。

ボクシングなどの「瞬発力」というのもそれだと考えられている。

これも昔、不良(いまでいうヤンキー)をやっていた男から聞いた話だが、アベックをおどしたとき、相手の男が死に物狂いで向かってきたら「ちょっとヤバイ」とのことだった。

男が体を張って愛する女性を守ろうとするとき、自分でも思いがけぬ力が出るものらしい。

そんなときは交感神経が急激に緊張する。

すると、ストレスホルモンのアドレナリンが大量に分泌され、神経の情報伝達を迅速にする。

それまではのんびり交代制でやっていた筋線維に緊急出動の命令が出て、筋線維フル活動となるわけだ。

運動生理学では緊急反応というそうだが、そうしたモチベーションが強いほど行動のパワーは強く現われる。体内の予備能力が出てくる。

別の言葉でいえば気力が体力を過剰に引き出すわけだ。

体力とは、狭い意味では、ある力がある時間内にどれだけ出せるかというスポーツ能力のようなもののこと。

広い意味では、長いあいだ病気をせずに働いている状態のことである。

そのどちらの場合にも気力の影響は大きい。

多くの場合、気力と体力は平行し、しばしば一致する。

われわれは経験的にそのことをよく知っている。

ダウンしたボクサーが立ち上がるのも気力なら、高校野球の投手が炎天下の甲子園で3連投、4連投できるのも気力の占める割合が大きいはずだ。

むろん、二日酔いの体を自ら敢然と満員電車の中に押し込むなんてのも、気力以外のなにものでもあるまい(3連投投手などとの状況レベルとはだいぶ差はあるけど)。

では、気力とはなにか。

それは努力をいとわない精神のことだろう。

結果のいかんを問わず、ひたむきに努力しつづける精神、それが気力だろうと思う。

ところで、諸兄。

気力に欠くる勿(な)かりしか!

努力に憾(うら)み勿かりしか!


失聴記(2)

 老にして聾、聾なれど朗。


 夕暮れにはまだいくらか間がある。淡い青色が空いっぱいにひろがっている。

 週日のこの時間、荒川左岸の堤防上につくられた、自転車と歩行者専用の「健康の道」にはほとんど人影がない。

 河口のほうへぶらぶら歩いていくと、外灯の台座にジャンパー姿の小柄な男性が腰かけていた。

 六十がらみの人のよさそうな顔に笑みを浮かべて立ち上がり、口を開いた。

 こちらはあわてて頭を下げる。

「あ、ごめんなさい。わたし、耳がダメなんです。よかったら書いてもらえますか」

 メモ帳とボールペンを差し出すと、ちょっと困惑した感じながら受けとり、ゆっくりと文字を記してよこした。

『向こうに見えるのは 富士山ですか』

 横罫のページに縦に書いた2行がすこし曲がって傾いている。

「はい、そうです」

 西の方角のはるかに遠い空と海とが接するところに、逆扇形の山容がくっきり見える。

「秋のいまごろからと冬の晴れた日には、とくによく見えるようになるんです。空気が澄むからでしょうね」

 なにかつぶやいてうなずく相手へ、会釈を返し、背を向けて、ぶらぶら歩きをつづけながら、思った。

 ここから富士山が見えるのが意外だったのかな? 

 どこから来たんだろう。最近、近くに越してきたんだろうか。

 ずいぶん久しぶりに妻以外の人と言葉を交わすことができて、うれしかった。

   *

 両耳の聴力を失ってもう9年になる。

 正確にいえば、23年前にまず右耳がダメになった。

 肝臓を3分の1切除する手術の、全身麻酔からさめたとたん、脳が破裂しそうな激痛に襲われた。

 そのとき同時に聴覚伝導路のどこかがこわれたのだろうか。

 退院して数日たったころ、右耳の聴こえがおかしいことに気づいた。手術を受けた病院の耳鼻科で診てもらい、「重度感音難聴」といわれた。60歳だった。

 それからの14年間は左耳だけで暮らしてきた。

 日常、多少の不便は感じても、別段悩んだりするようなことはなかった。

「昼寝のときの耳栓が1個ですむからトクだ」などバカな軽口を叩いたりして......。

 ところが9年前、その左耳もこわれてしまった。

 5月半ばの朝、目が覚めたら左耳がボァーンと詰まっていた。

 飛行機に乗ったときに生じる耳閉感に似ている。

 家の近くの耳鼻咽喉科医院に駆け込み、耳管に空気を送る通気治療をやってもらったが効果なし。

「大きい病院へ─」と医師。

 翌日、妻に付き添われて、都心の専門病院を受診したときは、もうほとんど何も聴こえなくなっていた。

 医師が質問を机上の紙に記し、こちらは口で答える問診、聴力検査、頭部X線検査その他の結果、「急性感音難聴」と診断された。

「突発性難聴とはどう違うのですか」と聞いたら「ほぼ同じ」、

「原因はなんでしょう」には、首をひねり「? ? ?」、疑問符が三つ、横並びに記された。

 早速その日から始まった高気圧酸素療法、副腎皮質ステロイド、血液循環改善薬、血管拡張薬、代謝賦活薬など併用の、2ヵ月余にわたる総攻撃的な治療もむなしく、ほぼ全聾にひとしい両耳の失聴が完成した。

   *

 病院で紹介された補聴器専門店を訪ねて、「認定補聴器技能者」が選んでくれた三つばかりの機種を試し聴きして、機能(重度難聴用)と懐具合の折り合った「ポケット型補聴器」(5万3千円)を購入した。

 そして補聴器生活が始まって、まずなによりもうれしかったのは、自分の声が聴こえるようになったことだ。

 人が口から言葉を発するときは、自分の耳でもその言葉を聴いている。

 自分の口から出た言葉が自分には聴こえないというのは、なんだか妙な感じでへんにくたびれる。一言二言ならともかく、長話などとてもできない。

 補聴器をつけたら、口から出た言葉がそのまま耳から入ってきて、気もちが落ち着き、普通にらくに話せるようになった。

 人の声も、イヤホンとつながったコードを伸ばし、補聴器の本体を相手の口元へ近づけるとちゃんと聴こえる。が、声が聴こえることと、言葉を正しく聞き分けられることは、全然同じではない。

 大きめの声で、ゆっくり話してもらうとすっとわかるときもあるが、そうでないときのほうがずっと多い。最近の一例―。

 プロ野球日本シリーズ実況放送のテレビに映ったダッグアウトを見て、妻がいった。

「工藤は1週間、風呂に入ってない」

「へぇ、げんかつぎってやつか。シャワーは使ってるのかな」

「えっ!?」

「1週間、風呂に入ってないんだろう?」

 妻はげらげら笑いながら、正解を記した手持ちボードを見せる。

「工藤は自信たっぷりの顔」

 勝利を確信した監督の表情についての感想が、なぜ「1週間、風呂に入ってない」になるのか。これはもう笑うしかない。

 9年も経って、毎日、同じ家で暮らしている相手の言葉でさえこうなのである。

 まして、よその人の言うことなど――である。だから私の補聴器は人の話を聞くのにはほとんど無力、もっぱら自分の声を聴くためのものといったほうがよい。

 人の話が聞けないと、人と会ってもあまり楽しくない。ときには苦痛でさえある。すっかり出不精になった。

 年に1度、「長寿健診」を受けるさいに提出する「生活機能に関する基本チェックリスト」の、

「バスや電車で1人で外出していますか」「友人の家を訪ねていますか」

「家族や友達の相談にのっていますか」

「週に1回以上外出していますか」

「自分で電話番号を調べて電話をかけていますか」といった項目の「いいえ」にレ印を入れるのにも(最初は抵抗感があったが)慣れた。

 ことしはついに、「(ここ2週間)自分が役に立つ人間だとは思えない」の「はい」をチェックした。

「ここ2週間どころじゃないよ、年中だよ」とつぶやきながら――。

「目が見えないことは、人と物を切り離す。耳が聴こえないことは、人と人を切り離す」とカントがいっているそうだが、自分の実情もそれにとても近いと思う。

 人と話をしないことが長く続くと、やがて声がかすれてついには出なくなる。

 声帯も筋肉だから使わないと萎縮するのだという。

 その「声帯萎縮」を防ぐべく、私が日常つとめて励行していることは、歌を歌う、文を朗読する、の二つである。

 歌えば気も晴れる、読めば頭もしゃきっとする。

 これ、うつや認知症の予防にも役立っているのではないだろうか。同居人(と、台所のぬかみそ)にはだいぶ迷惑をかけているようだが...。

   * 

 お年玉はがきの売り出しが始まって数日後の晴れた日の昼過ぎだった。

 団地のなかにある郵便局へ行こうと、コンクリート長屋の4階から1階へ降りて外へ出たら、路上にぽつんと一つ、幼い女の子の姿があった。

 いたいけな小さな歩みがなんともかわいく、後ろからずっと見ていたくて、追い越しそうになった足をゆるめようとしたとき、その幼稚な歩行がぴたっと止まった。

 と、次の瞬間、わっと泣きだした。

 おどろいて駆け寄り、ひざを折って声をかけた。

「どうしたの?」

「まいごになっちゃった」

 口元へ向けた補聴器を通して高く澄んだ声が耳を打った。おおっ、いいぞ!

「だいじょうぶだよ、おじいちゃんと一緒にさがそうね。お名前は?」

「みやした ひろみ」

「いくつ?」

「四さい」小っちゃい手の親指を内側に折って見せた。

 ああ、ありがたい! よく聞こえる。

 さあ、正念場だ。祈るような思いを込めて言葉をつなぐ。

「ひろみちゃんね、おじいさん、耳がきこえないんだ。大きな声でお話ししてくれる。おうちはどこ?」

「わかんない」

「そうか、おうちはずうっと遠くなんだね」「うん」

「きょうはどこに来たの?」

「ようちえん、ママときたの」

「あ、わかった! もうだいじょうぶだよ。連れてってあげる。おいで」

 立って、手を差し伸べると、ぎゅっとつかまってきた。

 団地の一角にある幼稚園は、荒川の堤防の内側に沿う道路に面している。

 幼児の足に合わせてゆっくりいま来た道を引き返す。かわいい手から伝わってくる小さな握力をしみじみうれしく感じながら......。

 二つの住居棟(当家もその一棟の一室)のわきを抜けて、小学校の校庭と団地の間の細長い路を行くと、幼稚園の裏門に突き当たる。

 何かの催しでもあったのか、園庭で子どもたちが遊び、若い母親たちが少人数の輪をいくつかつくって、立ち話をしている。

 その場景が間近に見えたとたん、右手のなかからすっと小さな手が離れた。

 ママのもとへ駆け寄る後ろ姿を見届けて、ほっとし、きびすを返した。

 歩く足が軽い。郵便局は明日にしよう。

 思いがけぬ贈り物をもらった幸福感をこのまま胸に抱いて家に持ち帰ろう。

 妻と話したい。

 ローエンドロー ローエンドロー

 聾後のマイテーマソングをひとりでに口ずさんでいた。

 老&聾 聾&朗......。


子どものメタボ

  カエルとメタボ

ニュースのない日は動物園に行ってみる─というのが、昔の新聞記者心得の一つだった。

サル山のボス争いとかカバの大あくびとか、心和む閑種(ひまだね)を探す早道だったからだ。

また、スポーツ、芸能、流行、健康、子どもに関する話題は見逃さず記事にすべし─ともいわれた。

大方の読者共通の関心事だからで、これはいまでもそうだろう。

であるなら、子どもの健康は、さしずめ関心の2乗だろう。

「こどもはわれわれの未来であるとともに、われわれの過去でもある」と民俗学者、柳田国男は言っているが(『こどもと言葉』)、子ども(の現在)がわれわれの過去であるのなら、われわれ(の現在)は子どもの将来にほかならない。

「親を見りゃボクの人生知れたもの」なるメイ吟もある。

これを健康面に当てはめると、親が太っていると、子も太る。

カエルの子はカエル、メタボの子はメタボというわけで、その理由は、体質の遺伝と同一の食事環境だ。

子どもの肥満はそのまま大人の肥満につながりやすく、大人になってからの肥満よりも治しにくい。


 ママの責任

肥満児の背後には、たいてい肥満した親が控えている。

多くは母親だ。

理由は体質の遺伝と同一の食事環境。太りやすい体質を共有していて、いつも同じ物を同じように食べていれば、同じように太るのは当然の成り行きだろう。

子どもの肥満は、そのまま大人の肥満に移行しやすい。

脂肪細胞は、思春期まではその数が増え、それ以後は細胞自身が大きくなるといわれる。

つまり子どものときからの(脂肪細胞がいっぱい増えた状態の)肥満は、大人になってからの肥満とは違い、なかなか治しにくい。

成人後の肥満は、もっぱら当人の責任だが、子どもの肥満は、離乳食の食べさせ過ぎが基盤となって完成する。

責任は母親が負わなければならない。

離乳食については、もう一つ問題がある。

母親が自分の味覚に合わせて味つけをするため、しぜん塩分が多くなることだ。

で、日本人は赤ん坊のころから塩味好みになり、成人後の高血圧発症の原因になる。

高血圧予防は離乳食から─と説き続けた人が、循環器内科の大家、故五島雄一郎・東海大学名誉教授だった。


焼け焦げの発がん性

がん恐怖の非科学性

友人にいわゆるキャンサー・フォビア(がん恐怖症)みたいな男がいて、焼き鳥、焼き肉、焼き魚などはいっさい口にしない。

動物性たんぱく質に多く含まれるトリプトファン(必須アミノ酸の一種)が焼けると、発がん物質に変わるから─というのだ。

目玉焼きの焦げた部分も絶対、食べない。

パンの耳もむしり取って自分は食わないのだが、近所の小公園に集まるハトに投げ与えている。

ハトはがんになってもいいと思っているのか?

ま、なにを食おうが食うまいが、他人に強制さえしなければ、当人の勝手である。

しかし、それを一般論にされては困る。

焼け焦げを食べても、がんにはならないことがわかっているからだ。

こう言うと、国立がんセンターの「がんを防ぐための12ヶ条」には「焦げた部分はさける」とあるではないか─と反問する人がいるかもしれない。

あなたも古いのです。

2011年発表の「がんを防ぐための新12か条」ではその条項は削除されています。

肉や魚にたくさん含まれているアミノ酸が焼けると、細胞の遺伝子に突然変異を起こす物質(変異原性物質)ができる。

なかでもトリプトファンからできる2種類の物質〈トリプP1、トリプP2〉は、特に強い変異原性=発がん性をもつことが動物実験によって確かめられた。

そのため肉や魚の焼け焦げを食べるとがんになる─ということになった。

だが、その発がん実験は、合成された純粋なトリプP1やP2を、マウスに大量に与えて行ったものである。

実際の肉や魚の焼け焦げのなかに含まれるトリプP1やP2は、1㌘当たり1ナノ㌘というきわめて微量なものでしかない。(1ナノ㌘は10億分の1㌘)。

もし実験で与えたトリプP1やP2と同じ量を、本物の焼け焦げの状態で食べさせるとしたら、体重30㌘のマウスが、真っ黒焦げに焼いたイワシを毎日70㌔㌘、1年以上も食べ続けなければならない計算になるそうだ。

仮にマウスと人間の、発がん物質に対する感受性が同質のものだとして、これを人間に当てはめてみると、体重60㌔の人が毎日140㌧もの真っ黒に焼いたイワシを食べ続けることになる。

つまり、現実の問題として重要なのは、発がん性があるかないかではなく、どれだけの量あるか─なのである。

物質の性質をみることを定性分析、量をみることを定量分析というが、定性分析だけにこだわると、人は往々にして科学的迷信のとりこになる。

焼け焦げ恐怖はその最たる一つといえるだろう。

むろんパンの焼け焦げも問題外だ。

それはあのハトたちのためにもよろこばしいことである。



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